2018.01.01
南相馬というこの町で生まれて、この町で向きあい、この町で目指していること-2018年第一弾
【雲外蒼天】という言葉と向き合って私が感化されること
新年あけましておめでとうございます。アイリスホームで代表取締役社長(何でもします課)を担っております佐久間岩男です。久しぶりにブログ投稿ですが、しばらくの間お付き合いいただければ幸いです。
「雲外蒼天」この言葉の意味を字引きすると、暗雲の外に出れば、蒼穹(あおぞら)は広く、あたたかい。雲は、さまざまな障害や悩みの意。困難を乗り越え、努力して克服すれば、快い青空が望めるという意味。絶望してはいけないという激励の言葉として載っています。
「復興と希望」いう事を口にしてしまうと、少し直球すぎる感もありますし、また、少なくとも被災者の1人である私であっても、私以上に哀しまれた震災者の皆さんを代表して「復興」という言葉を語ることが憚れます。
そんな葛藤やこれからの決意を凝縮して、2018年第一弾目のアイリスホームFacebookカバー画像に「雲外蒼天」という言葉を載せたデザインにしております。
※こちらのイラストは、友人のイラストレーターに今回特別に依頼したものであって、ビジュアル的に「南相馬といえば、やっぱ野馬追い!」なので、そのイメージをベースにクリエイトして頂きました。
人生にプレは存在しない!ってことを、身をもって感じた修行時代はバックドロップの連続だった。
わたしは旧原ノ町(現在の南相馬市原町区)に昭和48年に生まれ、両親が会社経営と共に兼業農家として米を作っていたので、収穫の時にはバッタを追いかけていた…そんな幼少期を過ごしていました。
年を重ねるうちに次第に親の仕事って何をやっているのか?と興味が出てきたことも加算され、小学校での卒業文集では「大きくなったら社長になる!」と何の根拠もない夢を描いていました。
そんな少年が大きくなり高校卒業後の就職先に「材木市場」を選び入社するも、木の担ぎ方を知らないので、重心を間違えて肩に担ぐことしばしばで「バックドロップ(木材をかついだまま後ろにひっくり返る)」で凹む毎日でした。
今から思い返すと、待った無しの市場の仕事で鍛えられ、同時に木の良し悪しや木の知識を積み上げていた時期でした。
人生にプレは存在しない!この言葉は今尚心に深く刻まれている言葉です。
数年経ってから、地元に戻ると今度は住宅建築と不動産(土地)の待った無しの世界がまっていました。苦笑
実は、名もない土地が宅地になるまでに、いくつものエピソードや関所があるんですよね。ここでいう関所とは…
▷法令上の制限
▷調査
▷土地の歴史や背景
▷水利組合さまとの話し合い
▷関係庁舎への日参
などのことです。
そんなことを知ってからは、住宅の建築の影に隠れている名もない土地のエピソードに愛着がわくこともシバシバなんです。良い土地との出逢いって、半ば偶然のような必然のような、結局「縁と運とド根性かよ!」みたいな部分も確かにあります。
土地に比べると注文住宅の建築は、ワリとハッキリしているところがあります。それは…
①スタイル(ナチュラル、ビンテージ、ユニセックスなど)
②素材やスペック(省エネ、断熱、気密など)
③適正なコスト(これ重要ですよね)
先に述べました名もない土地にドップリはまる傍ら、住宅を建てる専門の施工会社として、これらを①から③をクオリティアップとバージョンアップをしながらコツコツと展開していました。そんな時・・・・・
衝撃!!今あらためて思い返しても、悪夢としか言い表せないあの瞬間あの衝撃!!
突然の悪夢!
青天の霹靂!
2011年3月11日
会社内にいた私は社員と目を合わせ、地震速報のアラームに「何?なんか鳴ってるね!」
次の瞬間!立って居られない程の揺れが事務所全体を襲いました。
即座に家族の安否を考え車に飛び乗り向かうも、あまりの揺れの大きさに向かう途中ブロックは崩れ、信じれない程車がまっすぐ走れませんでした。いつもの倍以上の時間経過でどうにか自宅へ着くと、当時0歳の息子と妻が寒空の中、すでに避難した後でした。
一晩、原町でやり過ごした次の日、妻の実家の飯舘村へ避難しましたが、電気は停電が続いており、ロウソクと懐中電灯で心細い時間が続きました。
もちろん、あの時は、テレビや電波もないので、ラジオ放送を聞いていると、え?原子力発電所が爆発したと????そう感じたのもつかの間、すぐさま県道が昼夜問わず渋滞となり、常に車が大行列&大混乱となりました。こんな交通量を地元で目にしたのは、生まれて初めてでした。
大地震と津波に加えて新たな異常事態が発覚!!!
異常事態!地震だけでも異常&緊急事態なのですが、原子力発電所が爆発するってどうなん?!?!これからどんなことが起こるのか、未知の世界の中、吹いている風を読みました。結果、寒い時期なので北西の風が吹くだろうから、やはり西に逃げようと。。。。
すぐに郡山の姉へ連絡を取りお世話になることになりました。
でも、少し気がひけホテルの予約をとろうと問い合わせをしてみると「放射線スクリーニングの検査を受けないと宿泊はできないので、まずは検査に行ってください!」、そう言われるがままに検査に行くと、ここでも大行列が。。。寒空の中、体育館のガラスも割れ、悲惨な状況下でスクリーニング検査をしていただきました。
その後、その他の原発の爆発もあり、茨城の姉の元へ子供達を避難させました。
そんな中、飯舘村や川内村では情報が少なく避難者が多く被曝しました。被曝した一人に義理の父もそのうちの一人でした。
これから先の人生を考えて、自問自答に明け暮れた毎日が続くも…
(テレビが見れる環境になってから)毎日テレビをみながら「この先住み慣れた町(南相馬市や相馬市)はどうなるのか?」
「今後、原町に戻って家づくりができないのなら、サラリーマンとして就活する可能性もあるでは?」
そんな不安や自問自答を繰り返していました。
すると突然、取引企業の社長から「仮設住宅の公募がありますので、是非手を挙げてお願いします!」と連絡をいただきました。
ただ、地震前の地元の職人が、疎開や避難でバラバラになっていることを予測するのは容易だったので、ぶっちゃけ仕事ができるのか不安な側面も多々ありましたが、「よし!!やってやろう!!」と、半ば条件反射で挑戦することを選びました。
この町に貢献できるのなら、それを選ばないという選択肢はありませんでした。
徹夜続きだし、不慣れな公共工事だったけど、不思議とあきらめるという文字は脳裏に浮かんでこなかった
公共事業が初挑戦の私にっとって、家を建てる事は同じであっても、従来の建築とは全く勝手が違うこと、震災後の物資不足、そんなイレギュラーなケースが待ち構えていて驚きの連続でした。(ホント壮絶でした!)
現場が動き始めて改めてわかったことは、職人さんの物を作り上げる「力」。職人さんってやっぱパワーあります。それと、50人規模で会社経営をしている協力会社の社長が自ら材料を現場内で運んで陣頭指揮を執っているさまに心動かされました。
仮設住宅では、これまで一棟一棟注文住宅を建てていたのとは違い、一気に38世帯もの住宅を同時進行的に建てていきます。そこでは全職人の力が結集して信じられない程のスピードが発揮され、わたしは正直そこについて行くのがやっとでしたし、圧倒される日々の連続でした。
全速力で取り組んだ結果、仮設住宅200世帯を完成させることができました。
そんな中、徐々に住宅建設の依頼をいただけるようになり、公共事業から従来の一般住宅へシフトしていくこととなり、アイリスホーム復活への道筋が見えてきたのです。
振り返ると、あの時「仮設住宅の公募」に立候補して全力で取り組んだことが大きな(好循環を生み出す)起点となっていました。
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と、ここまで書いたところで、続きは次回投稿にさせて頂きます。次回の内容は…
▷仮設住宅から復興住宅(注文住宅)へ
▷いっとき総勢2人だったスタッフが…
そんな回顧とともに、今振り返ってあらためて気づくこと、大切にしたいことを盛り込んだ内容になります。