2018.05.14
残響
新緑
新緑が芽吹く5月も半ば。ゴールデンウィーク明けの忙しさが少し薄れてきて一筆。
長い休みはうれしいけれど、その後の忙しさは体にこたえる。やはりバランスは大切なのだ。
つい先日、NHKさんの永平寺の特集を見た。厳しい戒律と修行で有名な永平寺。
僧の方の修行など見る機会はほとんど無いので、流し見るはずがチャンネルはそのままに。
自分と同じ年齢、ないし年下の雲水の僧の方々が厳しい修行の中己を律しながら日々を過ごしている。
それを見ながら僕は一つの感想を持った。彼らが己に課している修行はとても厳しいものであるが
そこにあるのは人間の暮らしが営まれている。彼らからすれば俗世に暮らす僕たちは、厳しい修行こそ
無いものの、彼らと同じ人間なのだ。自分の身の回りを正し、住む場所を清め、日々の暮らしを営んでいる。
座禅を組み、禅を通して己を学んでいく過程はないものの、そこにあるのは人間の暮らしだった。
けれど違う。彼らの暮らしと僕たちの暮らしは同じでいて違う。
違うもの
違うとすれば彼らはそれを突き詰め、秩序を持たせていることにある。食事の作法、掃除の作法、一日の時の刻み。
僕たちは蛇口をひねれば水が出て顔を洗う。彼らはそれを一杯の桶に汲んで済ます。水の恵みに感謝をするように
磨きぬかれた流し台の排水口に水を集めて清めている。実際にやるのはとても大変なことだろう。
そしてそれを続けるのも大変なことだと思う。彼らはそういった修行の中で感じ、考え、何を思うのか。
同じ人間であるけれど、置かれた環境でどう生きるかが本当に変わる。永平寺の戒律や作法を特集の中だけで
全て理解することなど出来ないけれど、そういった秩序の中で一心に向き合っている人間がいることを思い知った。
同じような事をしようとは思えない。例え同じような事をしたとしてもそれで自分が何かを得られるとも思えない。
彼らが修行を通して学んでいるもの、悩んでいるものは何なのか。
気づくこと
僕は何となくではあるけれど、人間には段階的な到達する何か、気づきがあると思っている。
それは精神・身体の両方の面で、ある日そこに到達したり、地道に昇ったり気づいたりしてくもの。
経験とかそういったものではなく、一つの境地のような存在があると勝手に思っている。
雲水の方々が、修行を通してその気づきに近づくように、僕は建築を通して自分を省みたい。
自分の中の気づき。声。迷い。悩み。
うれしかった事も悲しかったことも。
すこしでも気づけたらと思う。一心に座り、考え、師に迷いを尋ねる雲水の方のように。
まだ薄暗い早朝の永平寺。起床の時間を告げる鐘の響く音が、見終わった後もしばらく残った。